読書メモ 「坂の途中の家」角田光代
角田さんの長編小説を久しぶりに読んだ。
角田光代は、一番好きな作家さん。吉祥寺な雰囲気の作品も好きですが、特に「八日目の蝉」を読んだときに「許された」と思った経験をして以来、特別な思い入れがある。「母親に対して、好意的とはいえない感情を抱いてしまう自分は間違っているのでは。血のつながりのある肉親と、上手くやれない自分は異常なのでは」と思って、動き出せなかった時に読んで、すごく救われた気持ちになった。勝手な想像ですが、角田さんって母親になんらかの釈然としない感情を持って育ってきたのでは、と思う。↓こちらもおススメ↓
さて「坂の途中の家」。
最愛の娘を殺した母親は、私かもしれない。虐待事件の補充裁判員になった里沙子は、子どもを殺した母親をめぐる証言にふれるうち、いつしか彼女の境遇に自らを重ねていく。社会を震撼させた虐待事件と〈家族〉であることの光と闇に迫る心理サスペンス。
角田さん、子どもを「あーちゃん」って呼ぶの好きなのかしら。他の小説でも「あかり」って名前で「あーちゃん」って呼ばせてたような。
愛しているから、「相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。 」といういびつな、でも家族にありそうな関係性が描かれている。夫と妻、の関係性だけでなく、母と娘の関係性にもありそうな構造。
読みながら色々なことを思う。友人の子どもの事を思い浮かべたり(友人には絶対言えないけど、イヤイヤ期のその子をどうしても可愛いと思えなかった。自分にこんな子が産まれてきたらどうしようと思った)。専業主婦であるというのはどういう感情なんだろう、夫の言動の一つ一つがここまで気になるんだろうか、私は働いていたほうが精神衛生的に良いな、とか。以前お付き合いした人と会うことがどんどんしんどくなっていったのは、マウンティング取ろうとしていることが言動の端々から感じられたからなのかな、とか。
自分と親のことを考えながらも読んでいた。うちの父親は、大声で汚い言葉でどなるタイプで、「誰が養ったってると思ってんねん」ぐらいは普通に言う人。「お前!」という声は耳に残っている。母はそれに負けずと(特に酔うと自分からふっかけて)言い返すタイプの人なので、両親の怒鳴りあう声で目覚めることもしばしば。母は父の言動にどれぐらい傷ついてたんだろう。父の浮気時はどんな気持ちだったんだろう。
そして、その母のちょっとしたさげすむ視線や聞かせるようなため息、何気ない発言、明らかにこちらを傷つけようとした意図を持った発言(整形したほうがあなたのため、お金あげるからお願いだから病院に行って整形してというのはどんな意図だったんだろう)は、もう会わなくなって久しいのに、未だに記憶に染みついている。親は、私にとって理性のない、浅ましい人間でしかない。そして、私の思考・行動はあの親から与えられたもので形作られている。機嫌が悪い時にドアを乱暴に閉めるなんて、あの両親から受け継がれたもの以外、何者でもない。「家族の呪縛」から逃げたくて、家を出て何年も経っても、10年以上話していなくても、やはり逃れ切れていない。「親とうまくやれない人間が親になれるはずがない」。自分はおかしいのではないか、人が出来ることが出来ないのではないか、私も心の奥底ではそう感じているし、主人公はその言葉に縛られていたんだと思う。
「八日目の蝉」では、その「家族の呪縛」から少し解き放たれたエンディングでしたが、今回はそれもなく。救いは、主人公以外の女性が、明るいタイプが多かったこと。困ったことがあっても笑い飛ばせるような人でありたい。私は抜け出せると思いたい。